360万パワー

1977年生まれ

コスプレで肌の色はどう表現すべきなのか

普段はテレビを見ないのですが、31日と1日だけは長い時間テレビを見ています。 笑ってはいけないはちょうどエディーマーフィーに扮したところだけ見ました。これは叩かれるだろうなぁ、それもしょうがないだろうなぁと思いましたが、意外と擁護する意見も多いようです。

アノニマスに黒人を象徴するための黒塗りではなく、コスプレだから問題ないのでは?という意見を見かけたので少し考えていました。

漫画、アニメ、ゲームなどのコスプレをする場合、日本ではウィッグやカラコンを使うのは当たり前というような状況です。キャラクターに近づけるために地毛では不十分、というのが現状です。

コスプレの楽しみ方に「あわせ(併せ)」というものがあります。同じ作中の仲の良い、繋がりのあるキャラクターのコスプレで集まって写真を撮る、というような意味です。Twitterなどであわせの参加者を募る募集はよく見かけますが、参加条件として「地毛禁止」「カラコン必須」みたいなのがあります。要するに、コスプレに一定レベル以上の質を求めている、という意思表示です。

ウィッグやカラコンはどれがキャラクターに近い色なのか悩むレイヤーのツイートもよく見かけます。そのくらい色はコスプレで大切にされています。では肌の色はどうか。

黒いキャラはそもそも少ないので見たことはありませんが、褐色の場合は塗る方は多くはありませんが少なくもありません。コスプレ用のボディファンデーションというものが販売されてるので、それを使う事が多いようです。ヒートテックみたいなタイツをキャラクターの肌の色に近いものを使って表現することもあります。ウテナのコスプレは肌の色を再現する割合が高い印象があります。

白はどうかというと、以前ワンデーブライトナーという商品が話題になりました。ファンデーションのようなものだと思いますが、肌を明るめにする程度でガッツリと白くするのは見たことがありません。

ワンデーブライトナー 120ml

ワンデーブライトナー 120ml

というような状況。エディーマーフィーのコスプレであっても東洋人が肌の色を変えたコスプレはいけない、と言われるとモヤモヤします。

一方、海外のコスプレはどうなのかというと、肌の色を変えるようなものは見たことがありません。海外のコスプレ状況はネットで見るだけなので、実際のところはよくわかりませんが。白人や黒人がアジア人っぽい肌の色にしている写真は見たことがありません。

カラコンどころかウィッグすら使わない人もいるようなので、コスプレでキャラに少しでも近づける意識が日本とは差が、考え方がまるで違うのかもしれません。肌に何か塗って色を変えることが即差別になる、という意識がしっかりしているからウィッグで髪の毛の色を変えるのもはばかるのかもしれません。

褐色キャラも多いFGOはコスプレ界隈でも盛り上がっていますが、ボディファンデーションで色を付けることが差別だと批判されるようになるのでしょうか。ダメだというのは簡単ですが、明確な線を引けないのは無責任のようにも思えます。

コスプレでもダメ、ならば絵はどうでしょう?2次元から3次元のコスプレがダメなのであれば、その逆の絵もダメでしょうか。黒人以外が描いた黒人に差別の意図を含むものが1つもなかった、ということは考えられないので歴史、文脈を考えると黒人以外が黒人の絵を書くこともダメ、という可能性はかなり高いのでは?

www.huffingtonpost.jp

アニメに寒い描写がある原因

anond.hatelabo.jp

アニメの寒い描写がきつい、これはわかります。寒いのは描写というよりは演出だと思います。言いたいことと思われるものを私なりに解釈します。

寒い描写というのは、テンプレな描写だと思います。どうしてテンプレ化するのかというと、お約束の演出は作品を成功させるために必要だから。オタク趣味は続けるほどどうしてもハイコンテクストになるのでコメディ的なものがウケるため、お約束が必要というか現物の安牌を切る感覚なんでしょう。FGOの成功の要因の一つに隠そうとしないテンプレにあると考えています。

一定数に確実に受ける要素にテンプレがある。SHIROBAKOやハケンアニメでもその辺の事情が描かれています。

ご存知の通り、現在制作されるアニメのほぼ全てが製作委員会方式で、様々な出資者がそれぞれの立場で成功のパターンをアニメ12話に詰め込むことが必要になり、その結果として最大公約数となるのが増田が寒いと感じる描写なんでしょう。最大公約数なのでアニメ、ラノベ、漫画でよく見られると感じ、よく見られるので寒く感じるのではないでしょうか。

外国、特にアニメ産業が盛り上がってきた中国から見て日本のアニメはどれも似たようなものという指摘には同意する意見が多いようです。これは日本のアニメにありがちなテンプレ設定、展開はよくないと感じている現れでしょう。一方で、セールス的にはテンプレは突出した成功は難しいかもしれないけれど失敗しても傷は浅いようです。

出資側は一か八かの年率100%でよりも堅実に10%で十分でしょう。1クールで百人以上、1億円以上が関わるアニメで食べ続けるには確実にペイ出来るものを作るのは当たり前です。不確実な作家性の高いものではなく確実に回収が見込める無難なものばかりになるのは当然の帰結でしょう。

そうであれば、寒い描写の責任はそれをありがたがるユーザー側にあります。でも最近は国内よりも海外展開を重視しているそうなので、寒いテンプレ描写は減少していくかもしれません。

ハケンアニメ! (マガジンハウス文庫)

ハケンアニメ! (マガジンハウス文庫)

ネット小説の情景描写

ネット小説で情景描写を色々と書かなくてもいいんじゃないのか?という意見に対する賛否があるようです。

ソープに行けでおなじみの北方謙三はさっぱりとした文章で情景描写はグダグダと女々しいと言わんばかりです。まるでヘミングウェイのようです。ヘミングウェイを読むと情景描写を細かく書かないのに情景を頭に思い描かせ、これこそ文章表現のように思います。

一方でグダグダと情景描写をする代表格というと、プルースト失われた時を求めてでしょうか。保坂和志もそうですが、いちいち情報が過多な文章表現に思えますが、映像に詰め込めない情報を表現することこそ文章表現の特異性にも思えます。

季節の記憶 (中公文庫)

季節の記憶 (中公文庫)

極端な例を挙げましたが文章表現の面白さの一つは実際に読んている時間と物語の時間を自由に演出出来ることにあると考えています。

ガルシア=マルケスのようにじっくりと読まざるをえない文章のおかげで時間の進行を体感できるものもあれば、サクサクと読み進める文章で疾走感を感じさせる文章もあるでしょう。

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

情景描写を省いても脚本にはなりません。もちろん脚本を元に演技した映像をそのまま文章表現にすることも出来ません。表現としてどちらが優位というのではありません。

手塚治虫トキワ荘に来た時のアドバイスを受けてトキワ荘の住人はお金を出し合いレコードプレーヤーを買い赤塚不二夫は音楽からコマ割りを学んだとどこかで読みました。音楽や映像は現実の時間の流れを避けられない表現ですが、音楽から赤塚不二夫がコマ割りを学んだというのは、どういう事だったのかよくよく考えるべきでしょう。

トキワ荘青春日記

トキワ荘青春日記