荒木経惟は大橋仁の写真集を「現代アート」と考えていないし、たぶん大橋仁も考えていない
恐らく大橋仁を初めて知った人が色々と非難しているわけですが、非難を受けるのはもっともな理由があると思います。
わかっていないと言うと偉そうですが、わかっていない批判も沢山あります。 その一つが「アート」という言葉。 大橋仁は自身の展示や写真集を「アート」と呼んでいません。
なのに”アートならなんでも許されると思うな!”みたいな意見が散見されます。
写真集の帯に荒木経惟、アラーキーが「これが現代アートだ。」という言葉を寄せたから、かもしれませんが、アラーキーの言葉を取り違えている思います。
帯の言葉に関する経緯はこのインタビュー記事で触れているので、見てください。
大橋 仁、人類の明るい繁栄のため全財産をはたいて酒池肉林を撮り収める。 | TOMO KOSUGA
ただ、日本の写真界隈は写真作品を現代美術として解釈されることを嫌う傾向がある、ということを知らないとわかりにくいかもしれません。
有名な写真家で、その傾向が最も強いのは篠山紀信です。
篠山紀信をよく知らない人は、脱いでいれば芸術だと思っているんだろ!とか言っちゃいますが、篠山紀信に関しては最も的外れな感想です。 脱いでいれば芸術だと思ってしまうのは、そんな事を言ってしまう側にあります。
篠山紀信に関しては、初めて美術館で展示することになった「写真力」を特集した芸術新潮を見たらなんとなくわかるかもしれません。
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たぶん、現在のところ写真を使った作品で最も高額なのがアンドレアス・グルスキーです。
史上最高額! 4億3000万円の値がついた写真を撮った写真家、アンドレアス・グルスキーの世界 : ギズモード・ジャパン
そのアンドレアス・グルスキーと同じような手法を、それよりも以前から使い、シノラマと呼んでいたのが篠山紀信。
そんな篠山紀信が美術館での展示を避けていた、というのは知っておいてもらいたいなぁと思います。
なぜ写真とアートを別物にするのか
現在の日本で写真作品を現代美術として解釈されることを嫌う写真家の方が多いように感じます。
その理由は写真家によって色々でしょうが、荒木経惟による”私写真”の影響が恐ろしく強いから、と考えています。
荒木経惟は自身のハネムーンを撮った「センチメンタルな旅」において「前略 もう我慢できません」で始まる文章で、後に「私写真家宣言」と呼ばれるものを行いました。 奥様の陽子さんが亡くなった時の写真も加えた「センチメンタルな旅・冬の旅」では篠山紀信と喧嘩になり、篠山紀信は現在でもアラーキーに対して批判的な様子があります。
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それはともかく、アラーキーの「私写真家宣言」は日本写真界にとってトラウマと言ってもいいくらい、大きな影響を与えました。 (その次か同じくらい影響を与えたのは”写真”という訳語で、その次が土門拳の「絶対非演出の絶対スナップ」でしょう)
日本においては写真は自身を投影するメディアとして使われてきました。 セバスチャン・サルガドみたいな写真を撮る者が日本から現れないのはそのせいだと思っています。 一般的な日本人にとって、セバスチャン・サルガドの写真は他人事なので撮る対象にならず、逆に言えば他人事だから芸術的な写真だと思って鑑賞します。
【魂ガ感応ス】これが写真家の魔力、モノクロの真髄。見えないはずの「生きる力」を露わにする、セバスチャン・サルガドの報道写真:DDN JAPAN
(写真と現代美術の関係でまとまっているのはアサヒカメラの「ホンマタカシの今日の写真」です。3年分くらい読み返すと、なんとなくわかると思います。)
アラーキー以降をすっとばすと、私写真の系譜に現在あるのが大橋仁です。 なので大橋仁はリツイートなんてしていないで、考えていることを知らせるべきです。 宣言するいい機会でしょう。