360万パワー

1977年生まれ

スマホのカメラで撮ったものをなんて呼べばいいのか問題

日本なら写メと呼んでいいような気がします。写メールの写メでしたが、今ではメールにしなくても、(自己申告で)SNSに使わなくても写メと呼んで違和感がありませんし、写メでいいような気がしますし、写真という言葉を譲り従来の写真が別の言葉を求めてもいいのかもしれません。

何の話かというと、ベンダースのこのインタビューが元です。

www.bbc.com

iphone-mania.jp

ベンダースは映画監督で奥様が写真家で、ベンダース自身も写真展を行ったり写真集を出したりしています。尾道を撮ったりしていますが、ベンダースの写真自体は案外普通です。

かつて…

かつて…

このインタビューではスマホのカメラで撮影したものを写真ではない何か別の呼称が必要、みたいな話をしています。写真は訳語であり、この辺が日本語ではより複雑というか面倒というか、もしかしたら単純になるかもしれません。

photography

photographyの訳語の一つに光画というものもありました。恐らくこの訳語はダゲレオタイプに使われたもので、それより以前のカメラオブスキュラには写真という言葉が当てられました。 ざっくり言うと、カメラオブスキュラというのは投影する装置で、投影した映像ではありません。ダゲレオタイプというのは投影した映像を化学反応で固定化したものです。 もしかしたら、カメラを写真と呼び、撮影したものを光画と呼んでいた(訳語として使い分けていた)時期があったかもしれません。

photographyの訳語に「写真」の他にはかつて「光画」がありました。そして日本では「写真」という訳語はふさわしくない、みたいな議論が細く長く続いています。写真という言葉は真実を写す、みたいに思わせるからふさわしくない、光で描くから「光画」がふさわしい(写真よりまし)、みたいな内容です。スマホ以前、デジカメ以前からフィルムで撮影したものを意図的に加工(強調)することはできたし、ドキュメンタリー風のディレクテッドな写真(ざっくり言えばやらせ)もあり、真実を写しているわけではない後ろめたさか、「写真」よりも「光画」がふさわしい、というわけです。

なので、日本においては従来からの写真を写真と呼ぶのは止めて(スマホで撮影したものに譲り)光画と呼ぶのもいいのかもしれません。

まとめ(本題)

適当なことを書きましたが、ベンダースはスマホで撮ったものを写真と呼びたくない、とかではなくて、撮ったけれど時間が経てから見直すこともなく通り過ぎることの方を気にしているような気がします。

今でこそクラウドに写真を保存出来ますが、(今でもクラウドに保存することもない人もいますが)ちょっと前は友人の結婚式で撮った写真ですら機種変の度に写真が消えてなくなることを受け入れる人がいます。

24時間で消えるInstagramのストーリーなども受け入れられています。そういったものと、残すために撮影したものとを同列に扱うのはベンダースが言うように違うように思えます。

電子書籍がいまだに「本」と呼ばれないように、別の呼称があるべきという意見は当然かもしれません。

ラッキースケベの思い出

今年も暑くなり、ポプテピピックの話題もほとんど見かけなくなりました。 ポプテピピックのアニメでは「そうはならんやろ」、「なっとるやろがい」がヘルシェイク矢野の次にお気に入りです。 恐らく多くの人が気に入っているのでしょう、ニコニコでアニメを見ていると「そうはならんやろ」、「なっとるやろがい」のコメントはよく見られます。 どんなシーンでそのコメントが流れてくるかといえば、一つはいわゆるラッキースケベでしょう。 私も思い返すと一度だけラッキースケベがありました。それは高校生の時でした。

高校2年の夏休み、部活で登校した際に教室の机の中に置きっぱなしにしていな何かを取りに行きました。何かが何だったのかさっぱり覚えていませんが、あってもなくても大した問題ではなかったけれど、時間もあるし持って帰ろうくらいの気持ちだったような記憶があります。 教室は何階だったか覚えていませんが、校舎の一番奥にあり、鉤状といいますか、長い廊下の突き当りを左に曲がりさらに右に曲がったところにありました。要するに廊下にずらっと並んだ教室からは見えにくい位置にありました。 夏休みの部活が始まる前ぼけっと自分の教室に入ると、誰もいないはずの教室は女子剣道部が着替え中でした。 その時はなぜ女子が普通の教室で着替えているのか、それが剣道部だったことすら知りませんでしたが、とりあえず逃げました。

ドアは開いていたので、アニメのようにガラッと開けて何かを投げられるという感じではありませんでしたが、今にして思えばラッキースケベでした。 しかし、「きゃー!」みたいなのはなかったので、テンプレ的なものではなく、ただののぞき見みたいなものであり、ラッキー!みたいな感情ではありませんでした。

アニメやゲームにおいて、性的な表現が問題視される昨今ですが、偶然を装うラッキースケベは古典的ではありますが、実は問題視されにくい上手いやり方なのかもしれません。

水害はわかりにくい

2011年の和歌山豪雨災害の後、和歌山に行く機会がありました。半年くらい経っていましたが、まだまだ生々しい被害が残っていました。 水害というと低いところから浸水すると思っていましたが、道路を挟んで片側は浸水、もう片側はなんともない、みたいな場所もありました。 あとは鉄砲水。山の中の水害だったので鉄砲水が起こりやすいのだと思いますが、そうなりそうな場所もあれば、一見脈略のない場所でも起きたいたようでした。 要するに、水害はどこが危ないのかわかりにくい。川の近くは危ないのは確かだと思いますが、鉄砲水は関係ありません。 土砂崩れもわかりません。私が住む新潟も2011年の梅雨の終わりに豪雨災害がありました。近所でも土砂崩れがありました。家が飲み込まれるような規模ではありませんでしたが、山の中の道が埋まっていたり、あそこ崩れたんだなぁとわかるくらいにはありました。 これも土砂崩れをする場所はたまたまという感じで、その場所と規模は予想出来なかったでしょう。新潟は雪解けが急に進むとちょくちょく小規模な土砂崩れをしているので、崩れやすい部分から崩れているのかもしれませんが、どこが崩れやすいのか私にはわかりません。 とにかく水害はどうなるのかがわかりにくい。 2011年の時はあと1日雨が続いたら私の住む家も浸水したかもしれません(それでも私が住む家よりも川から遠いところで床下浸水したところもありました、私が住む家は元河川敷みたいな立地なのでここよりも先に浸水する場所があるのが驚きでした)。あと1日雨が続くかどうか誰も知りようがありません。実は天気予報はかなり高い確率で当たっているそうですが、晴れっていったのに雨のこともあります。 バシャーっという雨が2日も続くとそろそろ止むだろうと期待してしまいますが、7月の水害はバシャーっという雨が3日、4日と続くことで起こります。2日続くくらいは経験があっても3日も4日も続くことは経験がなく、被害が起こり始めます。被害が見えてきてようやくまずいことがわかり、わかる頃にはどんどんと被害が拡大します。 水害は閾値を超えると急に被害が現れてきますが、その閾値がどこなのかもわかりにくい。かなり降ったけど何もないという経験がある一方で大きな被害が出る経験は少なく、体感的にも閾値は感じにくく、避難の判断は鈍るのでしょうか。 とにかく、水害はわかりにくい。